自責思考と自己犠牲は、似て非なるもの
「まだ足りない」
「もっとやらなければならない」
そんな言葉が、いつの間にか頭の中に住み着いてはいないだろうか。
30代〜40代になると仕事や家庭での役割が増えることが多い。
漠然とした不安を抱えながら日々を過ごす人もいると思う。

自責思考は前向きで誠実な姿勢だ。
しかし、それが”自己犠牲”と結びつくと静かに自分自身を追い詰める思考に変わってしまう。
自責思考と自己犠牲は似ているようで本質は違う。
履き違えたまま進めば、心の余裕は少しずつ削られていくんだ。
休業を経験して気づいたこと
私は精神疾患を理由に仕事を休業した経験がある。
当時の私は問題が起きるたびに自分を責めていたように思う。
「自分がもっとできれば」「弱いのは自分だ」と考え、原因をすべて自分の内側に押し込めていた。

周囲に迷惑をかけてはいけない。
止まってはいけない。
そう思い込み限界に近づいている自分には目を向けなかった。
今振り返るとそれは成長でも責任感でもない。
自己犠牲だったのだと思う。
自責思考が健全に働くとき
自責思考そのものが悪いわけではない。
健全な自責思考とは、
・冷静に振り返ること(自分にも原因があるのではないか)
・次の改善につなげること(自身にできることはなにか)
・失敗と自分の価値を切り離すこと
こうした未来に向いた思考だと私は思う。

一方で自己犠牲という思考は人格まで否定しかねない。
やがて限界を無視して頑張り続けてしまう。
この違いは小さいようで積み重なると大きな差になるんだ。
理想を求めるほど、苦しくなっていった
私には理想の働き方や成果を強く求めていた時期があった。
しかし理想を追うほど業務の負担は増え、心の余裕は減っていった。
近づいているはずなのに、なぜか遠ざかっていく感覚だけが残った。

理想が高すぎたのではない。
本当に求めるもの、目的地が定まらないまま、ただ闇雲に走っていたのだと思う。
自己犠牲は美徳ではない
我慢や忍耐を良しとする価値観はまだまだ現代社会に根深く残っている。

特に自己犠牲の精神は美徳のように扱われがちだ。
しかし自分をすり減らす努力は長くは続かない。
続かなかったとき、人はさらに自分を責める。
そうして心は疲弊していく。
自己犠牲は、結果的に自分も周囲も苦しめてしまうことがあるのではないだろうか。
本当に求めていたもの
休業を経て向き合ったのは、「自分はどう生きたいのか」という問いだった。
本当に求めるものは出世や評価なんかじゃない。
安らかで、穏やかで、健やかな暮らし。
これこそが自分の本音だったと気づいた。

それは後ろ向きではなく、自分にとっての「生きる価値観」を知るための一歩だったように思う。
自責思考を味方にするために
今の自責思考は、未来につながっているだろうか。
ただ自分を苦しめているだけではないだろうか。
もし後者だと感じたなら、それは自己犠牲に傾いているサインかもしれない。

自分を責める前にまずは自分を守る。
休むことや手放すことは逃げではない。
自分自身として生きていくための現実的な選択なのだと思う。
おわりに
自責思考と自己犠牲は似て非なるものだ。
だが、その違いに気づけるかどうかでこれからの生きやすさは大きく変わる。
自分を追い詰める思考から、自分を支える思考へ。
この文章が少しでも肩の力を抜くきっかけになれば、それで十分だと思っている。

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