【日々の生活で考えること】自責思考と自己犠牲の境界線

<育児・日々の暮らしの記録>

「組織に尽くすことが正しい」

いつの間にか、そんな価値観を当たり前のように受け入れていた。

どんな仕事も淡々とこなす。

例え自分の何かを犠牲にしても、それがあるべき姿だと思っていた。

正しいと思い込んでいた価値観

私はいわゆる氷河期世代の一員だ。

周りには、何十社、何百社と履歴書を送り続けても採用されない人がいた。

就職浪人も珍しくなかった。

だからこそ思っていた。

“正社員として働けているだけでありがたい”

“職があるだけましだ”

親に出してもらった教育費。

その投資に見合う人間にならなければいけない。

そんな誰が決めたのかも分からない価値観を、疑うことなく信じていたんだ。

ただ、これはあくまで当時の自分の捉え方だ。

時代が悪かったのかといえば、必ずしもそうとは言い切れないと思っている。

就職できなかった人たちも、努力不足と言われればそれまでなのかもしれない。

結局のところ、自分がどんな考え方を選ぶかで見え方は変わる。

同じ出来事でも、受け取り方ひとつで世界は違って見える。

だからこそ、考え方というのはそれだけ大きな影響を持っているのだと思う。

気づけば心より仕事を優先していた

24歳の頃、祖父母と両親の5人で旅行に行った。

それが祖父と過ごした最後の旅行になった。

当時の私は営業職だった。

旅先でも当たり前のように仕事の電話を取っていた。

今思えば急ぎでも何でもない内容だったと思う。

それでも、そのときの私はそれが正しい行動だと信じていた。

仕事を優先する自分こそが、ちゃんとした社会人だと。

祖父は何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいた。

数年後、祖父は他界した。

葬儀を終えた夜。

私は、仕事用のノートPCを開いていた。

その日にやらなければならない案件なんてなかった。

それでも、手を動かしていた。

楽しいときに笑えない。

悲しいときに泣けない。

自分の感情よりも、どう評価されるかを優先する。

それが、当たり前になっていた。

自責思考が自己犠牲に変わる瞬間

自責思考という言葉がある。

本来は、「自分にできることは何か」と考えること。

つまり前に進むための思考だ。

だがそれが行き過ぎると、すべてを自分の責任として抱え込むようになる。

もっと頑張らなければ。

まだ足りない。

そうやって、自分を追い込み続ける。

それはもう、成長ではない。

ただの自己犠牲だ。

誰かのために尽力することは尊い。

責任を持って仕事に向き合うことも大切だ。

しかし、自分を押し殺してまで続ける努力は少し違う。

当時の自分は、「頑張ること」そのものが目的になっていた。

何のために働くのか。

それを考える余裕すら、なかった。

自分を守るという選択

今は思う。

自責思考は自分を責めるためのものではない。

自分をより良くするための視点であり、同時に自分を守るための考え方でもある。

自分の感情に気づくこと。

立ち止まること。

時には手放すこと。

それらもまた、前に進むために必要な選択だと思う。

あのときの祖父の穏やかな表情を思い出すたびに、考える。

本当に大切にするべきものは何だったのか。

少なくとも今は、自分の心を置き去りにしない選択をしたい。

そしてそれもまた、自分が選んだ考え方の一つなんだ。

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