若い頃は、飲食店での接客なんてどうでもよかった。
飯が安くて、腹が満たされればそれでいい。
むしろ愛想や雰囲気より、「量」と「値段」がすべてだった。
でも年齢を重ねるにつれて、少しだけ見える景色が変わってきた。
20代の頃、コスパこそ正義だった
20代の頃。
身も心も貧しかった。
給料は少ない。
休みも少ない。
毎日なんとなく余裕がなかった。
元気なのは下半身だけだった。
だから、いかに安く自分の欲望を満たすかばかり考えていた。
特に飲食に関しては顕著だったことを覚えている。
量が多い。
値段が安い。
腹いっぱいになる。
それだけが正義だった。

接客なんぞどうでもよかった。
店員が無愛想でも気にしない。
料理が雑に置かれても気にしない。
水が空になっていても気にしない。
「安けりゃいい」
そんなふうに思っていた。
いや、正確には“それ以外を見る余裕がなかった”んだと思う。
常に自分のことで精一杯だった。
自分が満たされることしか考えられなかった。
だから、人が自分に向けてくれる小さな気遣いにも気づけなかったんだ。
人のやさしさを受け取れなかった理由
今思えば、あの頃の自分には「受け取る力」がなかった。
それは、自分が誰かのために何か行動したか。
その経験があまりにも貧相だったんだ。
誰かのために動く。
相手を気遣う。
見返りを期待せずに行動する。
そういう経験が少ないと、人の親切にも鈍感になる。
例えば、忙しい昼時に店員さんが一言だけ添えてくれる「お待たせしました」。
エレベーターで開ボタンを押して待ってくれる姿。
子ども連れにさっと席を譲る心づかい。

昔の自分なら、たぶん全部スルーしていた。
でも、自分が少しずつ誰かのために動く経験をすると、不思議と見えるようになる。
仕事でも家庭でも、相手のことを考えて動く難しさを知る。
その大変さを知る。
すると、人の接客や気遣いに対しても、「ありがたいな」と思える瞬間が増えていく。
接客とは、提供する側だけの問題じゃない。
受け取る側にも、相応の器量があって初めて成立するものなんだと思う。
良い接客は、心の余裕がないと見えない
もちろん、常に高級ホテルのような完璧な接客を求めているわけじゃない。
ラーメン屋でも、定食屋でも、喫茶店でもいい。

ただ、そこにいる人が少しでも気持ちよく過ごせるように動いている人はいる。
昔はそれが見えなかった。
見ようともしていなかった。
でも今は、そういう小さな配慮に気づくことが増えた。
生活水準は今も変わらず低空飛行のままだが、昔よりは人のやさしさを受け止めることができるようになった。
たぶん、人って心の余裕ができた分だけ、人にやさしくなれる。
そして、人のやさしさにも気づけるようになる。
接客に感動するというより、そこにいる“人”が見えるようになったのかもしれない。
若い頃の自分を否定するつもりはない。
あの頃はあの頃で、無我夢中だった。
でも今は、値段や量だけでは測れないものがあると少しだけ分かる。
それだけでも、歳を重ねた意味はあったのかなと思う。
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