長男は現在3歳。
保育園に通い始めて1年以上が経った。
入園当初は給食で出されたものは何でも食べていたのに、最近は好き嫌いが激しい。
そんな長男を見ていたある日、保育園の栄養士さんから言われた一言が、妙に心に残った。
自我が育ってきた証拠
長男は、言葉の発達が懸念された時期もあった。
それが今では、そんなことがウソのようによく喋る。
それと同時に、自我も確実に発達してきた。
特に食べ物。
「これはイヤ」
「これは食べない」
が、かなりはっきりしてきた。

入園当初は給食で出されたものは何でも食べていたのに、最近はそうでもない。
まあ、これも成長なのだろう。
そんなある日、保育園からの帰り道。
道端で、保育園で給食を作ってくれている栄養士さんに出会った。
「こんにちは。いつもありがとうございます。」
挨拶を交わす。
息子が給食を残していることを知っているので、
「ウチの子、好き嫌いが多いみたいで、すみません。せっかく作ってくださるのに……」
と話した。
すると、
「いえいえ、いいんですよ。好き、嫌いという自我が育ってきた証拠ですよ」
と。
なんか、その言葉が妙に心に残った。
好き嫌い自体は悪いことではない
食べ物の好き嫌いが多い人は、人間関係の好き嫌いも多い。
そんな話を聞いたことがある。
本当かどうかは知らない。
自分だって、決して好き嫌いがないわけではない。
好んで食べないものもたくさんある。
ただ、これまでの自分は「好き嫌いがある=良くないこと」という価値観の元で生きてきた感じがする。
何でも食べる。
何でも受け入れる。
それが良いこと。
なんとなく、そう思っていた。
でも、そんな誰が決めたかわからん価値観で、好き、嫌いの間に「興味がない」という処理場を設けて、そこに放りこんでいたことがあまりに多かったことに気づいた。

特に人間関係。
自分の場合、好き嫌い以前に「興味がない」で終わらせてきたことが多い。
「あの人とは合わなそう」
「なんとなく苦手そう」
そんなふうに決めつけて、そもそも興味を持たなかった人も、これまでたくさんいた。
もちろん、誰とでも仲良くなりたいわけではない。
自分と合わない人もいるし、どうしても好きになれない人もいる。
でも、それは実際に関わってみてからでも遅くない。
少し話してみたら、思っていたより面白い人だった。
何度か話しているうちに、妙に気が合うことが分かった。
そういうこともある。
それなのに、「興味がない」という一見便利な言葉で、その可能性ごと切り捨ててきたような気がする。
「興味がない」で終わらせるのは、もったいない
好きなら、存分に受け入れればいい。
嫌いなら、受け入れなければいい。
それでいいと思う。
ただ、世の中には、その判断を瞬時に見極められない事柄が多い。
興味を持たなければ、そもそも好きも嫌いもない。
その中には、きっと磨けば輝く原石もあるはずだ。

自分はこれまでたくさんのものを「興味がない」で終わらせてきた。
その中に、本当は自分が好きだったものがあったのかもしれない。
やってみたら面白かったこと。
食べてみたら美味しかったもの。
話してみたら、意外と気が合った人。
そういうものもあったのかもしれない。
もちろん、何でも興味を持てということではない。
嫌いなものを無理に好きになる必要もない。
でも、好きでも嫌いでもないものを、最初から「興味がない」で終わらせてしまうのは、ちょっともったいない。
食わず嫌いしないようにな
我が子たちに伝えたいことは、たぶんそんなことだ。
好きなことは、存分に楽しめばいい。
嫌いなことは、無理に受け入れなくていい。
ただ、そのどちらとも判断できない状態で、興味がないゾーンに落としてしまうのは、あまりにもったいない。
だから、
「食わず嫌いしないようにな」
と言いたい。

これから先、いろんな人に出会って、いろんなことを知って、いろんなものに触れる。
その中には、最初はなんとも思わなかったものが、いつの間にか好きになっていることもあるだろう。
逆に、好きだと思っていたけど、やっぱり嫌いだった、ということもある。
それでいい。
好きか嫌いかは、後から自分で決めればいい。
ただ、知らないまま「興味がない」で終わらせるのはもったいない。
……まあ、今の長男は3歳。
そんなことを言っても、まだ分からないだろう。
今日も給食を前に「これ、イヤ」と言っているのかもしれない。
それも、自我が育ってきた証拠なのだろう。
栄養士さんに言ってもらったあの言葉を思い出しながら、しばらくは見守ってみようと思う。
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